慶應女子の就活放浪記 初内定まで
就活を始めるのも早ければ、内定が出たのも早かった。
六月の頭に、三田で行われた慶應生限定合同説明会に意気揚々と参加した。2018卒の大学三年生を対象にした、慶應生限定合同説明会は、たぶんあれが最初だったはず。
いかにも意識高そうでおしゃれな、ザ慶應ボーイ慶應ガールたちが、キャンパス近くの会場に群がっている。参加している会社のリクルーター達も、慶應生に負けじと、見るからに意識が高そうで、スーツをおしゃれに着こなしている。選ばれし者による、選ばれし者のための、早期特別合同説明会って感じがムンムンする......。
仕事内容に興味がなかった私は、合説に参加する企業がどんな仕事をしているかを事前に調べなかった。これは後から調べて分かったことなのだが、参加していた会社は、数社を除いてすべて、外資コンサルだった。そりゃあそんな雰囲気になるわな。
マッキンゼー、ゴールドマンサックス、A.T.カーニー、デロイトトーマツコンサルティング、その他名だたる外資コンサル会社が、各自ブースを並べ、デキる男/女を体現したようなプレゼンターが自信満々に自社の説明をしている。だいたいどの企業も、短いプレゼン時間の冒頭にプレゼンター個人の自己紹介を入れ、「慶應OB/OGです!」とアピールして親近感を抱かせ、後輩を取り合っている。慶應生も、他の生徒より少しでも前に座り、質問をし、自分の存在を人事部に印象づけようと、必死である。
はあー、すごっ。
気後れした。
それでも、何社か説明を聞いた。
説明を聞いた後にエントリーシートに名前を書いて提出するときに、何人かのリクルーターの方には「良かったらうちのサマーインターンシップに申し込んでください。」などと声をかけていただいた。
でも、超疲れた。それに、16:30から私が夢中になっている印度哲学の授業があるので、就活よりもそれを優先させたく、会場を出ようと、人波をかき分けて出口へ向かっていると「すみません。」と声をかけられた。
そちらを向くと、まだ説明を聞いていない、とある会社のリクルーターだった。
「うちの説明聞いて行きませんか?」
「ごめんなさい。もうすぐ授業があるので、ここを出ないといけないんです。」
普通ならここで、そうなんですか、授業頑張ってください、で終わるはずだ。
「授業終わるのって何時ですか?それからまた戻ってきますか?」
やけに粘着質だなあ。
「授業終わるの18:00なんです。戻ってきたい気持ちはあるんですけど、この合同説明会も18:00までなので、戻って来れないかなと思います。」
「そうですか。」
とリクルーター。本当にそろそろ行かないと印度哲学遅刻する!と思い、すみませんと謝って退出しようとしたら
「あの、お名前教えていただけますか?もし授業後に戻って来てくださったら、この会場での説明会は終わっていても、僕が個別にうちの会社の説明をするので、よろしければぜひ。」
びっくりした。こんなことってある?説明を聞いてもいない会社のリクルーターと会場ですれ違っただけなのに、こ、個別対応?そんなに私に興味を持ってもらえる要素もないと思うのだが。でも、こんなチャンスが舞い込んできた人は少ないのではないかと思い、名前を告げて、ダッシュでその場を後にし、印度哲学の教室にスライディングした。
印度哲学の授業を終え、あのリクルーターが、私を待っていて、帰れないと申し訳ないと思ったので、またあの会場に向かった。会場の入り口で、デロイトのプレゼンターとすれ違った。ほら、みんなもう帰ってるのに、申し訳ないな、と思った。受付では「もう終わって片付けしているので生徒さんは入れません。」と注意された。
声をかけてきたリクルーターに会うと、ものすごく喜ばれた。合説を終えて各会社が片付けをしている時も、会場のロビーにはまだいて良いようだったので、ロビーの椅子に並んで座り、そのリクルーターと一対一で一時間くらい説明を聞いた。
会社の説明はもちろんしていただいたが、なぜか途中で急に、「ハーフですか?」と訊かれて、びっくりした。
「いえ、100%日本人です。」
「へえ。じゃあ、出身は?」
「東京です。」
「ご両親もずっと東京なんですか?」
「はい。祖父は岩手みたいですけど。」
「ああ、だからですか。東北の方って色白ではっきりした顔立ちの方多いですもんね。」
と謎のやり取りのあと、会社の事業内容から離れた雑談になった。
「慶應は第一志望で入ったんですか?」
「はい。受けたなかでは。本当に京都大学に行きたかったのですが、受けるのを諦めました。」
などを話し、なぜかそのリクルーターの浪人時代や大学時代の話を聞き、最後に、名刺を渡された。
え?大学三年の六月で、就活開始一日なのに、某会社のリクルーターの名刺ゲット!?
うまく進みすぎて、怖かった。だいたい何でも、初めにうまく行き過ぎると、後で怖い目に合うものだ。そう覚悟していたが、そのあと、その会社にたびたび来社するようになり、本当に面白いほどポンポンと選考も進み、息をするように内定をもらってしまった。
そして、2018卒の就活が解禁される三月には、はるばるドイツ、オーストリアへ2週間の長期旅行に旅立ったのである。
というサクセスストーリーを聞いていただきましたが、これから怖い目に合います。次号をお楽しみに。
慶應女子の就活放浪記 プロローグ
大学三年になった途端、あいつがやってきた。
その名は就活。
まだ四月なのに、優秀な学生を青田買いしようと、三田キャンパスの正門や東門を出た道には、就活生と企業を結びつける人材会社のスタッフがズラーッと並び、合同説明会のチラシを押し付けてくる。
意識高い系の学生は、それを手に取り、合説に参加する会社のHPを見ながら、どの会社が良いかなーなんて考えるのである。自分の力を知らないがゆえ、慶應ならどこでも受かんだろ、くらいに考えてしまうのだ。
かく言う私も、そのチラシを手にした一人だった。
「そんなにバリバリ働きたかったの?」と訊かれたら、悩む。「周りが就活してるから流されてしていただけ?」と訊かれたら「それは違う」と答えられる。
私は、そもそも就活に全く興味がなかった。小学生の頃から本が好きで、将来は文章を書いて生計を立てたいと思っていた。中学一年の頃には、すでに大学は文学部に入ることを決めていた。高校生になる頃には、大学院進学を決めていた。
就活なんて別世界の話だったはずなのに。
大学二年で今のパートナーに出会い、考え方を改めた。というのも、パートナーが売れない作家だからである。好きな人が、作家という私の夢をすでに叶えていて、毎日毎日小説を書いている、だけど世間には認められないのでお金を稼いでいない、という状況を前にしてもなお、文学研究のために大学院進学をして将来は作家になりたいなんて言ってられるか、と。
正直、文学部で院に行き、研究者を志すことは、自ら好き好んで人生を常に背水の陣にするのと同じである。院に入ること自体は大学の勉強を真面目にしていればそれほど難しくない(と聞く)が、そこから生き残っていくことが超難しいのである。とある先生に聞いた話だと、実際、文学系の博士を取るなり博士課程を単位取得退学するなりしたところで、研究職のポストにありつけるのは、4%だという。30歳くらいで運よく非常勤講師になれたとしても、非正規職で、年収は200万ないくらいだと。
パートナーと一緒にいたいのなら、必要なのは、金だった。二人の人間が生きるのに困らないくらいの金を、安定して、持続的に、手にすることが、必須条件だった。
ならば、慶應新卒というブランドを活かして、金を稼げば良いじゃんか。卒業時は22歳で十分若いし、若さ+大学のブランド力があれば、良い給料をくれる会社に就職できんじゃん?それが一番コスパ良く金稼げそう。
という安易な考えに至った。
だから、早い段階から就活することにした。合説のチラシは四月に手にした。
もともと就活には全く興味がなく、本当にしたいことは文学研究だったので、どんな仕事内容が良いなどという希望はなかった。あ、訂正。正確に言うと、数字が苦手なので、銀行や証券はさすがに無理だと思い、もともと候補から外していたが、それ以外なら別に何でも良かった。
金くれ。
これだけの動機で始めた就活。
出だしこそ快調だったものの、まさか後々、あんなことになるなんて......。
ということで続きを楽しみにお待ちくださいまし。
新婚トイレ旅行 2017年度『塾生三田文學』掲載
新婚トイレ旅行
森鏡子
9月5日
朝7時、パリは曇天。シャルルドゴール空港に降り立った。乗り継ぎを合わせて約20時間の空の旅は、半年前、成田からアブダビ経由でベルリンへ飛んだ時よりも快適に思えた。前回は、ドイツにいる友達に会いに行くのが一番の目的で、ついでにドイツオーストリアを観光するという感じだったが、今回は、完全に二人だけの新婚旅行(笑)である。新婚旅行と云っても、私たちはまだ結婚していないので、そこにまず矛盾があるのだが、まあいい。気分的にはそんなもんだ。だからパートナーを夫と呼ぶ。
パリジャンというにはゴツすぎるおじさんによる入国審査を終え、荷物を受け取るベルトコンベアに向かっていると、夫が
「俺トイレ。」
と言いだした。パリに着いて第一声がそれかよ、しかも韻踏んでんじゃん。
「ああ、はいはい。荷物取ってる。」
と言い、ベルトコンベヤの荷物掃き出し口付近へ向かった。夫はよくトイレに行く。なんせ、消化が良すぎるからである。185㎝61㎏の長身痩身だが、本当によく食べる。気持ち悪いほどよく食べる。そしてどんどん消化する。身体に老廃物が溜まらない仕組みになっているらしい。もちろん生まれ持った素晴らしい体質だけに頼らず、日々の運動と食事の賜物とも云えるのだろう。あ、食事について補足すると、量は果てしなく食べるが、栄養学的なものはめちゃくちゃ気にしており、意識の低いものは全く口にしない(これについて話すとキリがなくなるのでこの辺でキリ上げる)、面倒くさい完璧主義者である。ちなみに私の食事も管理してくる。おかげで体調が良くなったので文句はないが。んまあ、そんなこんなで、夫は見た目が異様に若い。いつも10歳ほど若く見られている。
荷物がなかなか流れて来ない。掃き出し口の真ん前は、中国人たちが陣取っている。使った航空会社が中国国際航空エアチャイナなので、当たり前と言えば当たり前だ。エアチャイナは五割デレイ三割ロストバゲッジするというので、ベルトコンベヤの周りはまるで戦争から帰国する我が子を探す親のような面持ちで、荷物を待ちわびている人々がたくさんいる。私は、荷物なんかないならないでその時だ、身体一つあれば良いや、くらいに思っていたが。
延々と流れ始めないベルトコンベヤを見ながら、中国人たちのにぎやかなおしゃべりをぼんやり聞いている。夫はまだ帰ってこない。そういえば、乗り継ぎの北京で会ったあの青年は今頃ちゃんとミュンヘンに着いただろうか。
北京空港で、国際線乗り継ぎの体温検査カウンターに並んでいると、後ろから
「日本の方ですか?」
と声をかけられた。見ると、人の好さそうな笑顔の青年である。
「はい。」
と答えると
「国際線の乗り継ぎってここでいいんですかね?」
と訊いてきた。
「そうだと思いますよ。ここ、インターナショナルトランスファーって書いてありますから。あっちは出国と国内線乗り継ぎですよね。」
と言った。確かに、間違えそうである。出国と国内線乗り継ぎは、まるでコミケのように並んでいるのに(ちなみにコミケに行ったことはない)、私たちのいる国際線乗り継ぎの体温検査カウンターには、私たちの前に二人しか並んでいない。しかし、これで良いはずだ。だってしっかりデカデカとインターナショナルトランスファーって書いてあるのだ。流れに惑わされてはいかん。
「ありがとうございます!」
と笑顔の青年。こういう人間は周りを心地よくさせる。これだけでも良い思い出の一つになったのに
「カップルですか?」
と訊いてくれた。
「はい。」
と夫がイキリオタクのように勢いよく答える。
「良いですね。」
と100点満点の笑顔の青年。
「どちらに行かれるんですか?」
と夫が青年に訊く。
「ミュンヘンです。どちらまで行かれるんですか?」
と訊き返され
「パリです。」
と夫と私がきれいにハモってしまった。
そんなこんなで体温検査カウンターを通り、階段を降りると、なるほど一階下なのか、国際線乗り継ぎの人々でコミケのようにごった返していた(ちなみにコミケに行ったことはない)。私たち三人は、列の最後尾に加わると、人呼んで「陽のコミュ障」である夫が、青年にちょっかいを出し始めた。
「ミュンヘンかあ。昔行ったなあ。誰と行くの?」
「友達数人と一緒に行きます。」
「え、友達いないじゃん。一人じゃん。淋しくね?」
「現地集合なんですよ。」
「現地!面白いな。ミュンヘン以外はどこ行くの?」
「ケルンとか、アムステルダムとか。」
「ケルン!?アムステルダム!?遠いじゃん。なんでそのプランなの?」
「ケルン大聖堂が見たくて。そんな風に皆が見たいポイントを結んだんです。」
「ケルンはやばいよ。三月に彼女とドイツに行ったんだけど、その時にドイツに住む彼女の友達が、ケルンはドイツ一治安が悪いって言ってた。俺は、日本の姫路城から始めてヨーロッパ各地で野宿をしまくってきたけど、ケルンでの野宿は絶対におすすめしない。」
野宿をしにいくような馬鹿はあんた以外いないだろ。青年は完全に引いていたが、態度には出さないのが素晴らしい。現代の君子である。
「野宿……面白いですね!」
そして「陽のコミュ障」夫が、訊かれてもないのにさらに語りだす。
「ケルンよりも怖かったところはたくさんある。俺は昔、ブルガリアの田舎で、街灯もない夜に、予約してたホテルへの道が分からなくなって迷子になったのよ。やばいと思って怖かったから、とにかく走ったんだけど、そしたら、前にデカくてゴツい黒人の男がいたんだよね。殺される!と思って全速力で走り抜けたわけ。そしたらさ、むしろその黒人のほうがめちゃくちゃびっくりしてたんだよ。逆に驚いたわ。それからは、もう野宿が怖くない。だって、夜中に東洋人のわけわかんない男がブルガリアの田舎をダッシュしてたら、そりゃ怖いじゃん。だから、俺たちはむしろ治安の悪化に貢献しているほうなんだと思えば、野宿は余裕。立ちションも野糞も余裕。」
青年の眼は死に、口は笑っていた。
「この人、何歳に見えます?」
と夫を指さし、私が青年に訊いた。
「うーん、30くらいですかねえ。」
やはり来たか。様々な人に夫が何歳に見えるか訊くと、だいたい皆29や30と答える。
「いや、俺もう39。」
夫がどや顔で答える。
「え、めちゃ若く見えますね!?肌もきれいで、信じられない。」
驚く青年に私が
「この人引きこもりなの。日に当たらないからね。」
と言う。
「え、引きこもり……?引きこもりがヨーロッパで野宿?」
青年は全く状況がつかめていない。
「そう、俺、ニートだから。実家が金あってさぁ、遊んで暮らしてんだよね。」
「でもお父様お母様が亡くなったら、野垂れ死ぬしかないね!」
私が明るく合いの手を入れる。青年は何度もパンチを食らったような顔をして
「い、良いですね。僕もそんな暮らししてみたいです。」
と言い、ちょうど手荷物検査の所まで来たので、そそくさと消えていった。彼はミュンヘンまで無事たどり着いただろうか、ケルンで強盗に合わなかっただろうか、今もふと思う。
さて、やっとベルトコンベヤに荷物が流れてきた。と、ほぼ同時に夫がトイレから帰還した。シャルルドゴール空港の職員の、テキトーさは凄まじい。鮪を船に放り投げる遠洋漁業の漁師のように、スーツケースをガンガンガンガン投げまくる。おかげで、凹んだものも見た。私たちの荷物は無事だった。よっしゃ!出国すっぞ。新婚旅行(笑)が幕を開けた。
まず、空港のツーリストインフォを探し、ミュージアムパスを二枚買う。これでだいたいのパリのミュージアムに入れるのだ。夫が受付の女性からパスを二枚もらい、何か説明を受けていた。私は荷物番で、少し離れたところに立っていたので、説明は聞こえなかった。
さて、次に、空港を出てすぐのバスターミナルで発券機を探す。バスで中心街まで出るのだ。面倒を避けるため、旅行中の支払いはできるだけ夫がクレカでし、帰国後割り勘と決めていたので、クレカの使える発券機へ行ったのに、故障中。しかも一機しかない。ああ、これがみなさま憧れのパリクオリティ!仕方なく、バス内で運転手から直接現金で買うことにした。ちなみに現金は、日本円にして4万円をあらかじめユーロに替えておき、今回のようにクレカの使えないシーンで使おうと財布に入れていたので、問題なし。
ロアシーバスで、空港からオペラ座まで一時間。途中停車はない。バスの中で、夫からミュージアムパスを手渡される。裏側に、自分で日付を書き、その日付から二日間有効とのこと。私はボールペンを持っていなかったので、夫に借りた。そしたら、夫がニヤッとしてこんなことを言い出した。
「これさ、フリクションだから、消して書き直せば、何日でも使えんのかな。」
おお!さすがニートっぽい小賢しい発想!ご両親を言いくるめて40まで養ってもらっているだけある!でも残念ながら、日付の下にバーコードがあった。
「バーコードあるからだめじゃない?どこ入るにもこれをピッてやるんじゃないの?」
「日本出る前にいろいろ調べたんだけど、ピッてやるのはポンピドゥーセンターだけらしいよ。それ以外はちらっと見て終わりらしい。」
それが本当だったら、パリのテキトーさ、すごいな。良く言えば、観光客に優しい街である。世界一観光客が来るから、いちいち確認するのも面倒なんだろうか。
バスはオペラ座に着いた。まず目に入ったのは、立派なパリスオペラである、と言いたいところだが、実際は、その向かいにあるユニクロに目が釘付けになった。あのユニクロが堂々とオペラ座の真向かいに鎮座している。なんだこれ。ユニクロ、すごいところに出店したんだなと日本企業の風を感じた。思ったより寒ければここで服を買い足そう、と呑気に思ったりした。まあ、それは良いのだが、今はキャリーケースをゴロゴロしているのでとても観光どころではない。正確に言えば、夫が私のものと合わせて二つゴロゴロゴロゴロし、私は夫と自分の鞄を持って後ろから付いていっているだけだが。身軽になるために、オペラ座から歩いて五分もかからないくらいの場所にあるJCBプラザへ行った。JCBのカードを持っていると、荷物を預かってくれるらしい。中へ入ると、空港のラウンジやホテルのロビーのような雰囲気だった。カウンターにいるのは皆日本人女性で、気が楽になった。受付のおばさんに夫がカードを見せた。もちろん、ニートがJCBのゴールドカードなど持てるはずがなく、一流の大企業でサラリーマンとして定年まで勤め上げた夫の父親名義である。スーツケースを二つ預け、お手洗いを借り(もちろん夫もここでもトイレ)、パリの街へ繰り出した。
歩いてすぐの、ラドゥレに入る。やっとあの巨大なマカロンの実物を見られた。へへっ。即購入。加えて、ミニマカロンという私たちが普段見るサイズのマカロンも数個購入。自宅持ち帰り用の紙袋に入れてもらう。店を出てすぐ紙袋を漁っていると、夫が巨大マカロンを食べてみたいというので、それを手渡す。私はピスタチオ味のミニマカロンを半分齧る。ピスタチオの風味がふわっと広がっ……
「甘っ!これギャグみたいな甘さだな。」
夫が大声を出した。巨大マカロンを齧った感想を大声でお叫びになったのである。せっかくピスタチオの風味を味わっていたのに最後のほう集中できなかったじゃん!人生初の本場ラドゥレのマカロンなのに。と思ったが、半分になったピスタチオのマカロンと巨大マカロンを交換し、私も巨大なフランボワーズマカロンに齧りついた。
「甘っ!!」
確かに、驚く甘さである。半年前に食べたウィーンのホテルザッハーのザッハトルテも、かなり甘かったが、これは挟まっているフランボワーズジャムが甘さの暴風雨で殴ってくる感じである。すごく美味しいのだが、一個は多い。ミニサイズで十分である。と思っていたら
「んんんんっ!!」
と変な声が聞こえた。もちろん、また夫が変な大声を出したのである。夫は声が大きく、リアクションも大きい。しかも声が高い。背も高い。髪も長い。意味がわからない。
「なに?」
夫が悲痛な顔をしている。そして地面を指さしている。見ると、なんとあのピスタチオマカロンが、ほとんど私が齧ったままの形で落ちているではないか!
「ええ!もったいない。食べたの?」
「ほんの少しは食べられた。でも、ほぼ落とした。」
まったく、何をやっているんだ、この男は。落とした部分だけでも日本円にして100円くらいはするぞ、とは言わず
「残念だね、やすくん。これあげる。」
とまだ袋に残っているコーヒー味のマカロンを渡す私は18歳下の可愛い奥さんである。
ラドゥレの何軒か先に、アンジェリーナがある。ルーブルの中にも店舗を構える、モンブランが美味しい老舗ケーキ屋である。ここに入り、モンブラン一個とモンブランマカロン一個を持ち帰る。みみっちい買い物をする東洋人の私たちにも、店員のおばさんは愛想がよく、優しく、ホスピタリティに溢れていた。接客態度は、もう日本を越しているかもしれない。おもてなしの国日本を凌駕するパリの観光客への態度に、日本の幸先が危ないことを察知した。向かいに広がる無駄に広すぎるテュイルリー公園のベンチに並んで座り、モンブランを両端からツンツン突っついて食べる。ウホッみたいな声が出てしまう美味しさである。甘いのに、しつこくなくペロッと食べられてしまう。あっという間にひとつ消えた。
「美味しかったー!もう一個食べたい。」
と自然と口にする私に
「みさっちゃん。これからも美味しいものたくさん食べるんですから、お腹を満たしちゃいけません。」
と夫が言う。そう、18歳も離れているので、夫は半分私の保護者なのである。今回の旅行も、予約から下調べから現地での切符などの買い物から、一切合切を夫がやってくれた。旅慣れた夫がやるほうが質の高い旅行になるからである。というこじつけの理由を作って甘えた私は、旅程さえざっくりとしか知らない。オフラインの地図もダウンロードしていない。すべて、夫が、する。私は、楽を、する。
あっ!!モンブランの入っていた紙の箱を折りたたんでいるときに、私は、大変なことに気づいてしまった。指輪なくした……。冷や汗が出た。夫には言わない。もし言ったら、すぐ探そうとするに決まっているからである。せっかくのパリ一日目を台無しにしたくない。要らぬ心配もかけたくない。右手の薬指にしていた指輪は、夫がプロポーズしてくれた時にプレゼントしてくれた、大切なお気に入りの指輪だった、はずがない。相手はニートである。一応バイトはしているが、夫のバイト代は月8万程度、家庭教師と塾講師をしている私のバイト代は良い月は25万、良くない月でも12万くらいは行くのだ。これは、自分の貯金で、自分の21歳の誕生日に買ったものである。まあだから、諦めもつく。渋谷や新宿でなくしたわけではない。パリでなくしたなら、それも運命だと思える。あ、待てよ。なくした可能性があるのは、JCBプラザだ!あの日本人の巣だ。お手洗いを借りたときに、手を洗うのに邪魔だったから一度外したんだ!じゃあ、もしかしたら誰かが拾ってくれているかもしれない。希望の光が差してきた。空を仰ぎ見ると、実際はそんなことなく、さながらご機嫌斜めなマドモワゼルのごとく薄く曇っている。まあ、あまり期待しないでおくか。
テュイルリー公園をぶらぶらし、オルセーへ向かう。あのミュージアムパスの出番だ。パスを持っていると、美術館内でチケットを買う人の列とは別の、早く進む短い列に並べる。まだチケットを持っていない人たちの長蛇の列は中国人や韓国人が多かった。世界一観光客の多いパリは、もう中国人だらけだ。人口が多いし、お金を持っているからね。私たちはサササッと入場した。受付の女性にパスを見せて入場しようとすると
「マダム……。」
と呼び止められた。最初はまさか自分のことだとは思えなかった。まだマドモワゼルと呼ばれると思っていたからである。夫は隣の受付からすでに中に入っているので、私単体を見て、この女性は「マダム」と判断したのだろう。新婚旅行(笑)だけに、人妻の雰囲気をまとう女子大生である。呼び止められたのは、ミュージアムパスの裏側の日付を見せて、ということだった。夫の言う通り、ピッとやらずに、チラッとみるだけだった。パリ、テキトーなんだなあ。美術館の事は書かない。書くとキリがないし、私でなくても美術館レポは書けるから。オルセーを堪能し、さて退場しようとすると夫が
「ちょっと待って!俺、やっぱどうしてもこの絵見たいんだよね。さっきから探してんのに、ないんだよ。」
と言い、インフォメーションカウンターへ向かい、学芸員のパリジェンヌに下手な英語で
「この絵どこ?」
と訊く。ジェンヌは、夫が手に持つ館内図にボールペンで丸をする。お礼を言うやいなや、夫が駆け出す。夫は足が速い。運動神経は人外である。足の遅い私が後ろから追いかける。オルセーで走るキモい東洋人カップルの私たちを皆ガン無視してくれるので気が楽だ。お目当ての絵を見つけ、ご満悦の夫にやっと追いついた。暫く眺めてから歩き出すと、夫がぽつりと口にした。
「最後にトイレ行きてえな……。」
オルセーからJCBプラザに荷物を取りに戻る。ロビーの椅子に座り、ご自由にどうぞのコーヒーを二人分持ってきて夫にカップを渡す。
「おお、ありがとう。」
と言い、夫が一口飲んで言った。
「まっず。エアチャイナよりまずいな。」
まあまあ大きな声でそんなことを言えてしまうあたりは、分からぬ。みさっちゃんにはその思考回路が分からぬ。私もコーヒーを一口飲み(美味しくはないがそこまででもない)、ごそごそと探し物をしている様子を見せると、夫が
「どした?なんかなくしたの?」
と訊いてくる。
「そう。ちょっと高価なものをなくした。」
「え?なに?え、もしかして指輪?」
「そう……。」
「うぉぉ!受付の人に訊いてみれば?」
うぉぉってなんや、と思いながら、仕方なく、受付の日本人のおばさんに訊く。
「すみません。今日、落とし物って届いていませんか?」
「どんなものを落とされたんですか?」
「アクセサリー類です。」
「あ、あったような……。指輪ですか?」
おや!?およよ!?これは、見つかる兆候か?
「そうです!指輪です。」
「何色のどんなデザインですか?」
「シルバーで、ウェーブが合わさっている中心に小さなダイヤがついているものです。」
ウェーブが合わさっている様子を、両手をくねくねさせながら必死の形相で伝えると、おばさんが控え室から、プラスチックのケースを持ってきた。なかにはシルバーのリングが鈍く光っている。おばさんがプラスチックの蓋を開け、私に見せる。
「これですか?」
「はぁん!これです!ありがとうございます。」
変な声が出た。すごいな、パリ。指輪まで返ってくるんだ。
「うちのフランス人スタッフが、お手洗いで見つけて届けてくれたんですよ。」
とのこと。夫が私より大きな声で、ペコっと頭を下げながら
「ありがとうございました!」
と言った。優等生の小学生男子かよ。でも返ってきて本当に良かった。これを、右手ではなく左手の薬指にはめれば、立派なマダムの証である。さて、また良い思い出ができたし、ホテルへ行こう。と思ったら、急に夫が振り返り
「あの、度々すいません。ハサミ貸していただいても良いですか?」
とさっきの受付の日本人のおばさんに言った。おばさんはさすがにちょっと怪訝な顔をした。
「ベルト切りたくて。このままだとズボン脱げます。」
と夫が少年のように顔を歪めてはにかみながらベルトを掴んで言った。そう、先に述べた体質ゆえ、日本を発ってから二日で、もう痩せたのである。優しいおばさんは受付の机からハサミを取り出して
「どうぞ。」
と言ってくれた。夫はお礼を言って、その場でベルトを調節した。ちらっと見えた腹筋に興奮して、ついその場で匂いを嗅いで舐めたくなった。何もかもお世話になり、今度こそ本当にJCBプラザを後にした。
ホテルにチェックインへ向かう。一日目の宿は、ダンフェル・ロシュローにあるホテルフロリドール。私の好きな林芙美子が泊まった宿を、トリップアドバイザーでおんぼろだと酷評されていても、あえて選んだのである。もちろん予約等の面倒くさいことは夫に任せたが。階段を上がって、受付に行く。五階の鍵を渡された。そう、芙美子が五階に泊まったからと、夫が宿に希望を伝えて手配してくれていたのだ。おんぼろ宿なので、エレベーターは貨物用しかない。人間は螺旋階段で上がるしかないのだ。と思ったら、受付の白髪のおじさんが
「マダム、女性はエレベーターで行きな。」
と言うではないか。マダムを貨物用エレベーターに乗せるのか!?大丈夫なんだろうか。
「大丈夫。大人の男一人乗れるよ。」
とおじさん。
「じゃあ、みさっちゃんは、自分のスーツケースとエレベーターで行きなよ。スーツケースの重さ足しても西洋人の男一人分にはならないでしょ。」
と夫。
というわけで、貨物用エレベーターに乗ったのだが、キリキリミシミシ鳴るので、いつ落ちるのだろうと不安で仕方がなかった。アステカの祭壇に供えられる処女の気分である。結局生贄にはならず、五階までたどり着けたので、良かったが。夫も階段を上がってきた。鍵を鍵穴に突っ込んで、開けようとするのだが、なかなか開かない。
「フランスって鍵開けにくいんだよな。」
と夫が言いながらガチャガチャガチャガチャやり続け、一分くらいしてやっと開いた。
はあー!芙美子のホテルフロリドール!私が興奮していると、夫がすかさず
「俺トイレ。」
と言った。また韻踏んだ。また台無しにした。ユニットバスに行く夫を無視して、部屋を見ていたのだが、なんせ狭いので、すぐに見終わってしまう。ベッドにダイブし、想像以上の硬さに驚きつつ、大の字に寝る。どうやらまだ、夫はトイレにいるようだ。からかい半分でユニットバスの扉に触ってみた。すると、大変なことに気づいてしまった。なんと扉が機能していなかったのだ。引き戸の下がはまっておらず、というか、はめる溝もなく、宙ぶらりんになっていた。もちろん鍵もない。ラッキーじゃん!と思い、音を立てないよう気を付けながら、扉の隙間から夫が用を足しているところを除き見た。うふふ。夫は、私が覗いていることにまだ気づいていない。
「失礼しまーす!」
と言って扉を開けてみた。すると
「あああああー!やめろ、変態!!」
と夫が叫んだ。面白い。これが面白くて私は夫いじりがやめられないのだ。さすがプロレスをやっているだけあって、意識せずとも日頃から何に対してもオーバーリアクションなのだ。私は以前から、夫に尿をかけられたい願望があったため、頼み込んで、お風呂で仁王立ちする夫の前にしゃがみこみ、尿をかけてもらったことがある。そんなことを経ているので、今更トイレを除かれたくらいでそんなに驚くこともないのにな、と思った。
「大声出さないの!静かにして。事件が起きたと思われちゃうよ。」
と夫を注意した。
「お前のほうがおかしいんだろ!俺は至って正常だ!」
そう言いながら手でモノを隠しつつ排尿している姿は、いかにも変態っぽかった。
「私にかけてくれれば良いのに。」
「お前死ね。」
9月6日
翌日の朝、目を覚ました私たちは、歯を磨き、顔を洗い、服を着替え、トイレに行く。私が先に行った。昨日から気づいていたのだが、このオンボロホテルは、チェックインした時から、トイレットペーパーがなんと一巻きの半分強くらいしか残っていない状態で、替えが用意されていなかった。朝私がトイレに入った時には、既にもう残りが少なくなっていた。夫も使うと思ったので、夫のために残そうとしたのだが、残せたのはほんの少しだった。私が出ると交代で夫が入る。トイレットペーパーをカラカラする音が聞こえたので、夫に訊いた。
「足りる?」
「足りなーい!」
「ごめん。」
「大丈夫。」
と言って中途半端にズボンをずり上げた夫がトイレから出てきた。自分のスーツケースをゴソゴソ漁っている。
「ティッシュならあるよ。」
と私が沢山持ってきたポケットティッシュを手渡すと
「違う。これ。」
と、家から持ってきたトイレットペーパーを出した。薄緑のダブルロール。神々しい。
「すごい!持ってきたのか。さすが旅慣れてる!」
「トイレ付き夜行バスも乗るじゃん。ああいうのってすぐ紙なくなるから、それ用に持ってきた。まさかパリ一日目で使うとは思わなかったわ。」
と言いながら、中途半端にずり上げたズボンを引きずりつつトイレットペーパーを抱きかかえてトイレに帰る後姿が、なんだかすごく滑稽で愛しくなった。
前世療法 福岡旅行3 終
だいぶ日が空きましたが……。
さて、福岡に日本一のヒプノセラピストの先生がいるとの噂を聞き、前世療法のために出向いた私ですが、今は、先生のお宅に伺って、三時間ほどお話をし、やっと前世療法が始まろうとしているところなわけで。
ちなみにこの前世療法というのは、先生が「あなたの前世は〇〇年に生きた〇〇で、こういう性格で~」と一方的に教えるタイプの占いっぽいものではなく、先生は「どんなものが見える?」「どんな感覚?」と質問してビジョンを誘導するだけで、具体的なことを話すのは自分というものである。もともとは精神医学において催眠状態に陥らせることで記憶を過去に戻し、トラウマの原因を探ったりするものであったが、ある日、とある患者の記憶が遡りすぎて、前世のことを話し出したことから、発展したものらしい。
なのでこれも、占いというよりは、保険の効かない精神科のカウンセリングみたいなもの。私は単純に自分の前世を知りたいという興味から足を運んだのだけど。
本棚の奥にあるリクライニングソファに寝転がり、眼を閉じる。先生が私の額に手を当て
「広ーい一本道があります。あなたはそこをまーっすぐ歩いていきます。光が差していてとても気持ちが良いです。今から、私の指から眠りのローションを注ぎます。すーっと深い眠りに落ちていきますよ。」
などと宣うので、しばらく眠りのローションという魔法にかけられてみようとするも、うーん、無理。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、先生は構わずどんどん進めていく。
「さて、あなたは今、過去世の扉の内側にいます。三つ数えると、扉が開いて、あなたは過去世の人となります。」
え、ちょっと待ってよ。まだ私全くかかってないのに。
「3,2,1、はい。」
もちろん、なんも変わらん。
「さて、あなたは今、過去世の人となりました。足の裏はどんな感覚ですか?」
普通に自分の靴なんだが。ネットで買ったオックスフォードシューズ。
「あの、まだ全然意識があるんですけど。」
「うん、意識はあって良いんですよ。そういうものですから。さあ、なんでもいいから言いたくなったものを言ってください。」
って言われてもなあ。じゃあ、前世は自分で作れってこと?
事前にYouTubeで見た動画では、何人もの芸能人たちが同じようにこの先生に催眠をかけられ、質問にスラスラ答えていたのに、やはりあれは全て芝居なんだろうか。
(佐藤藍子さん。彼女の前世はエジプトの王女だという。)
「さあ、なんとなーく言いたくなったものでいいですから。」
これは、私が何か言わないと進まないパターンだな。
仕方ない。せっかくここまで来たし、35000円プラス税を溝に捨てるわけにはいかない。そのうち見えるかもしれないから、とりあえずなんか言おう。私は林芙美子が好きなので、彼女の人生にイメージを求めた。
「足の裏の感覚は……。下駄を履いてます。」
「じゃあお着物なのかしら。あなたは男?女?何歳くらい?」
「女で15歳くらいです。」
とりあえず、始まった。まだ意識がありありで、全然催眠していないと思うんだけど、仕方ない。
「どこにいるの?」
芙美子の故郷である、広島、と答えようとした。が、何故か、違うような気がした。ん?そして、気づいた時にはこう答えていた。
「岡山か、香川か。今でいうその辺り。」
あれ?おかしい。自分の作り話なら、違うも何もないのに。すごく感覚的なものだった。
「どんな景色が見える?」
「山と穏やかな海。高い所から見下ろしている感じ。」
瀬戸内に共通の風景だからか、迷うことはなく即答した。
(こんな感じ)
その後、
「家の様子を教えて?」
と言われると、何故か、自分の住んでいる家の様子がパッと見えた。山腹にある白い壁の小さな貧しい家。小さな弟妹たちが遊んでいて、家の中では赤ん坊をおぶった若い痩せた母親が過労にやつれながらもなお家事と育児に勤しんでいる。
自分で考えて頑張って作り上げたイメージではなく、瞬時に浮かんできたので、ああこれが前世療法なのかな?と思ったりした。
「お名前は?」
うーん。リという音が浮かんでくる。そしてミという音やチという音も浮かんできた。
「リ、リエかな?理恵?」
「理恵さんね。ではそうお呼びしますね。」
そこからはもう早かった。
「三年歳をとって。」「今はどんなことを考えているのかな。」「何が楽しい?」
など先生の質問に勝手に答えていた。
私の場合、最初は無理に作り上げた感があったが、そのうち催眠の世界に入っていきかけた?いった?タイプなのだろう。
この前世療法の体験話をすると、だいたい「催眠にかかって前世を見ている時ってどんな感覚なの?」と訊いてくる。人それぞれだと思うが、私の場合は、すごーく浅い催眠状態だったようで、自分の意識もはっきりあり、自分の意思で催眠状態から抜け出せた。
前世がどのように見えたかについては、夢のように世界に入り込んで自分が主人公になっている感じではなく、テレビを見ているような感覚だった。テレビに前世のビジョンが映り、そのなかにはもちろん理恵も映っているのだが、それを今生きている私鏡子自身が眺めているような感じだった。
理恵の人生は、薄幸だった。私は中高生の頃よく「幸薄そう」と言われたのだが、前世にその所以があるのかと思うと、なんかすんなり合点がいった。
簡単に言うと、父の連れ子か拾い子かの理恵は、父が家を出ていき、若い母が家事と育児に奔走する貧しい家庭で過ごし、少女の頃から歳の離れた弟妹たちの面倒を見て暮らし、友達はおらず、好きな学校も家庭のために泣く泣く諦め、ということを経るうちに、言葉を発するのが怖くなったのか、言葉を発することができなくなった。
誰とも話せず、誰とも分かり合えず、17歳くらいで家を出て、川沿いの夜道を歩き、寒さに震え、涙を流し、何度も何度も川に飛び込んで自殺しようかと考えた。それでも何とか生き抜いたようだった。
20歳くらいで街を離れ、一人で暮らしていた。友達もおらず恋人はおらず結婚もせず子どもいなかった。必要最小限しか外に出ず、話さなかった。先生が「30歳になってください。」と言った瞬間、何にも見えなくなった。いくら見ようとしても真っ暗で、どんなビジョンも出てこなかった。つまり、20代で死んだのだろう。
以上。
私の前世療法、そして前世に対する興味、これにて終了。
感想としては、前世があるなしに関係なく、見えるビジョンは、ある程度恣意的なものなんだな、と。おススメするかと訊かれたら、あれが1万円ならする。が、35000円プラス税は高すぎるな、という印象。まあ、絶対、話のネタにはなるので、ネタが欲しい方には良いのではないか。
私みたいに、芸能人が催眠にかかって前世について饒舌に話す動画を信じてしまうピュアすぎる人は、一生行かないでヴェールに包まれた存在として美化しておくか、もしくは早々に行ってどんなもんか分かるかのどっちかが良いのではないか、と個人的には思う。いずれにせよ、日本のヒプノセラピー第一人者と呼ばれる福岡のあの先生は、御年80なので、行きたい方は急がれることを。
前世療法、福岡旅行2
というわけで、成田からピーチで福岡に来たわけです。到着は夜の8時過ぎ。
翌日午後2時、ようやっと、センターの最寄駅に降り立ちました。
ザ・地味な田舎の町。
住宅と個人商店がポツポツあるだけ。センターらしき建物なんか気配すらありません。
心許ない思いをしながら、グーグルの地図に従って歩き、散々迷って、やっとピンと現在地が一致したのに。
??
家じゃん。しかも超普通の。
あっ、一階が一応そういうスペースになっているのか、パワーストーン的なものがたくさん置いてある。
でも、いかにも、親戚のおばあちゃんちって感じで、変な雰囲気はない。
「こんにちは〜。」と入ってみる。
パーマをかけたふくよかなおばあちゃんが、こちらを向き、「いらっしゃい。」と言った。
うーん。これまたいかにも親戚のおばあちゃんって感じ。
狭いその部屋は、真ん中に背の高い本棚が置かれていて、本棚の手前にテーブルと椅子、奥に前世療法をするためのリクライニングソファが置かれている。
まず、先生と向かいあって座り、名前年齢住所悩み等を紙に書き、そのあと、性格診断をやらされる。そして、その紙をもとに先生と話す。あと、帰りの飛行機の時間についても伝えておいた。
うん、ここまでは想定内。
でも、話が進むにつれ、なんだかなあと思う瞬間が多くなった。
というのも、先生が自分の話をしまくるからである。
私が1言うと20返ってくる。
自分の子供の頃の話、娘さんの話、旦那さんの話……。
先生の話がつまらないわけではない。でも、あんまりにも長すぎる!飛行機の時間だってあるし、そんなにゆっくりしていられないのに。しかも、もうお年を召されているからなのだろう、同じ話を何度もする。
うーん。なんだかこれで良かったのかなあ。
この後に前世を見せてくれるんだと思って、頑張って、うんうんと楽しそうに話を聞いて相槌を打っていたが、正直辛かった。
しかも、時計を見ると、とっくに三時間近く経っていた。確か、前世未来世療法3時間で35000円だったよね?
痺れを切らし、キリの良いところで、笑顔で「お話ありがとうございました。」と言った。
さすがに察したのか、「ではこれから、今のあなたに一番影響を与えている前世を見せてあげます。」と言い出した。
そう、これこれ。前世が見たかったんだよ。
「じゃあ、あちらに移動しましょう。ソファに寝ててください。暗くしますから。」と言われた。
ふぅ。長い話を聞いて疲れ切った私は前世を見せてもらえる期待感より、話からの解放感で身体が軽くなった気がした。(続く)
前世療法、福岡旅行1
突然ですが、前世、知りたくないですか?
私は知りたいんですよね。というか、知りたかったです。
以前、YouTubeで「前世」と検索しまくり、芸能人たちが催眠療法を受け、記憶を前世まで遡る動画を、見まくりました。
そして、多くの芸能人たちに催眠をかけ、前世を見せ、テレビにも多く取り上げられている、とある先生が、日本の前世療法の権威であることを知りました。
行動が早い私。
早速、その先生のことをネットで検索。すると、先生は福岡にお住まいとのこと。私は東京住まいだしな。そして、気になるお値段は、前世未来世療法3時間で35000円なり。うーん。良いお商売って感じ。
でも、気になるし、話のネタになるしなーと思い、ダメ元で予約の電話をしてみることに。これでダメだったら諦めよう、くらいの気持ちで。
電話番号は、先生の携帯と、前世療法を行うセンターのものと、二つ並んでいたので、とりあえずセンターの方へ。
鳴り続けるコール音。1分くらい待っても出る気配はない。
よし、さくっと諦めよう!ちょっと安心もした。
さて、すべて忘れて、優雅に紅茶を飲んでいたら、数時間後、よく分からぬ電話番号から着信が!
訝しみながらも、とりあえず取ってみると
「もしもし、先ほどはご連絡どうも。」
って、あ!あの先生、携帯から折り返してきたのか!
もうないものと思いこんでいたのに、まさか。
でも、間違いだったとも言えないし
「あ、あの、前世未来世療法を受けてみたいと思いまして。」
「ああ、ありがとうございます。お住まいは?」
「東京です。」
「うち、福岡なんですけど。」
「あ、大丈夫です。福岡まで伺います。」
と、まだ交通手段を決めてもいないのに、福岡行きが決定したのであった。
(続く)